袖振り合うも多生の縁、か。

少し前の話。

わたしは、かれこれ十七年ほど前に愛犬ブログを始めた。

生まれて初めてのブログだったこともあり、最初の数年間は面白くて熱心に投稿していたけれど、仕事が忙しくなってアップアップしてきた頃には次第に投稿回数も減り、ほぼ季刊誌のような扱いになった。

そんな適当ブログに最初から最後までコメントやいいねを送り続けて下さった方がいる。

信じられないでしょう?

わたしは信じられない。

でも、そのような方がおられた、しかも二人も。

そして、そのうちのお一人が、昨年、天国へ旅立った。

ブログ上で袖が触れ合った程度の縁ではあるが、わたしもわたしなりに大切に感じていて、時折ブログを覗いては、未読の記事もすべて拝読し、コメントを入れたり、いいねを押したりしていた。

泡沫のようなブログ上での触れ合いの中、十数年以上にもわたり切れずに続いた縁だった。

愛犬ブログに闘病記が混じるようになり、それでも治ると信じて疑わなかった。

しかし、昨年の春、お部屋に飾られた梅の花の画像を載せた記事を最後に更新が途絶えた。

一カ月経っても、三か月経っても、半年経っても最初に目に映るのは梅の花

「まさか」が「もしかして」に変わり、一年が過ぎた頃、もはや定期的に訪問することが習慣と化したブログを覗いてみると、そこには久しぶりだけれど見慣れた犬の画像があった。

溺愛していた最初のお嬢さんを亡くした後に引き取った、二頭目のお嬢さん。

元気そう。

お父様からブログを託されたという(人間の)娘さんによる久方ぶりの更新。

相変わらず賢そうな面持ちの美しく愛らしいお嬢さんが窓の外を眺めている。

手入れの行き届いたお庭で育まれた四季折々の命を、折に触れ、ブログ上でシェアしてくれた。

お嬢さんと一緒にしょっちゅうお庭で過ごされていた。

大仰な表現もなく、意図的な画像もない。

それでもその愛情の深さが液晶画面から溢れ出してくるのが常だった。

十数年にわたり、我が息子のことも気にかけてくれた方である。

ブログを更新してくれた娘さんやご家族の心中察するに余りある。

更新、感謝。

 

とても寂しい。

「不安遺伝子」に沸くわたし。

NHK BS「英雄たちの選択」が好きで、たまに録画して観ている。

少し前、2020年放映分の再放送で、陰陽師安倍晴明を取り上げていた。

晴明といえば、わたしの中では美丈夫のスーパーヒーローというイメージ。

しかし、実際の晴明は、40歳でもまだ学生という、遅咲きの国家公務員だったらしい。

NHK大河「光る君へ」の初回オープニングだかの映像で、ユースケ・サンタマリアさん演じる安倍晴明を見て、美丈夫なヒーロー像とはおよそ真逆な姿にドン引きしたが(ユースケさん、ごめんなさい)、まあ、現実なんてそういうものよ、とつくづく思った。

 

番組内で最も印象に残ったのは、晴明の人となりからは離れてしまうが、脳科学者である中野信子さんの話。

どうして晴明のような陰陽師がこれほどまでに受け入れられていたのか、という疑問に対する一つの可能性として、日本人に多くみられる「不安遺伝子」なるものに触れていた。

不安遺伝子とは何ぞや、なんだけれど、、、

幸せホルモンと呼ばれるセロトニンという物質があって、これが脳内で分泌されると脳の興奮が抑えられて心身がリラックスし、幸福感を得られやすくなるらしい。

さらに、このセロトニンをリサイクルしてくれるセロトニン・トランスポーターというたんぱく質があって、これが多ければセロトニンも多くなり、少なければその逆になる。

そして、これが多いか、普通か、少ないかは遺伝子で決まるそうだ。

少ない人がもつ遺伝子を俗に「不安遺伝子」と呼び、多い人のそれを「楽観遺伝子」と呼ぶらしい。日本人は世界的にみても稀なほど不安遺伝子を持っている人の数が多く、およそ7割近くの人が保有しているとか。

ちなみにアメリカ人は2割に満たず、逆に楽観遺伝子をもつ人が多いらしい。

ポジティブ・シンキングというのは、心の持ちようだけでなんとかなるものではなく、案外、遺伝子に因るところも大きいのかもしれないなあ、なんて思ったりした。

 

中野さんは、この不安遺伝子が陰陽師のような存在を受け入れやすくしたのだろうという。

昔から自然災害に悩まされてきたこの国の人々にとって、星を読む人、陰陽師の存在は、それはそれは大きかったに違いない。日本人にこの遺伝子が多いのも、このような環境下でフィルターにかけられてきた結果ではないかという説もあるそうだ。

備えあれば憂いなし精神。

投資よりも貯金、賃上げより内部留保、いまならNISA株?・・・

もしかしたら、これらもまた不安遺伝子の為せる業なのかしら、なんて思ったり。

我が家だと、母の買い溜め。

防災意識が高まるずっと以前から、とにかく冷蔵庫の中が空っぽだと不安になるという。

わたしはあまり心配する質ではなかったけれど、能登半島地震後に買い溜め派になった。

水や食料品、防災リュックは既に備えていたけれど、新たに簡易トイレを購入したり、廊下の隅に底が厚めのスリッパを置いたり、袋に入れたままにしてあったライフジャケットを取り出して壁にかけたり等々、、備えの内容を見直した。

正直、古い家なので、大地震ともなれば家屋が潰れ、すべて無駄になるかもしれない。

それでも、万一、生き残った際に何もないのだけは避けたいと思う。

 

しかし、不安遺伝子のおかげで防災効果があがっているかどうかというハナシになると、また別のように思う。

というのも、先の台湾地震では、発生から三時間で避難所が開設されたらしい。

簡易パーティションも迅速に設置され、あっという間にプライバシーが守られる環境が整い、温かい食事もきちんと提供されたそうだ。

この地域では2018年にも地震があって、その際、間仕切りもない環境に置かれた住民から不満が噴出したとか。行政がその声をしっかり受け止め、民間団体や企業と共に災害への備えを進め、繰り返し訓練を行ってきたらしい。その成果が出たと関係者は語っていた。

もともと台湾の防災への備えは日本をお手本にしているという。1999年の台湾大地震後、日本の防災計画や自主防災組織の仕組みを学び取り入れてきたらしい。しかし、取り入れただけでこうはいかないだろう。当然、応用力や実行力などプラスアルファが期待通りの結果に繋げたのだと思う。

印象的だったのは、行政の担当者が、「行政の力は小さい」と仰っていたこと。

行政の力は小さいので、民間の団体や企業との協力が不可欠という。

足下をみても、その点にどれぐらい真剣に向き合えるかどうかというのはとても重要なことのように感じる。とはいえ、それを一個人が感じていても広域的総合的視点で考えるのは難しい話だし、そこが不明瞭だとなかなかアクションにまで至らない。やっぱりきっかけ作りや枠組み作りといった導入部分は行政が担ってほしいなと思う。

もっとぐいっと市民のなかに入ってきてくれるといいのだけれど... 月に一回、アナログな回覧板でまわされる、薄い広報誌のなかで発信しても、なかなか伝わりにくいと思う。

まあ、行うは難し、なんて言われたら何も言えないけれど。

今年は首長選があって、一期務めた現職に対抗馬が現れた。結構、手強そうだけれど、果たしてどうなるか。どちらも防災対策、少子化対策で看板は似たり寄ったり。

細かいところをよく見て投票したいと思う。

 

話がツツーッと逸れたが、きょうのキーワードは、あくまでも「不安遺伝子」。

身の回りのことや世の中のことをいちいち不安遺伝子に関連付けしてみると案外面白い。

 

さて、最後に、、、

先日のお昼時、身内からスマホにメッセージが届いた。

会社の近くに来ていたキッチンカーでオムライスを買ったらしい。

何かのグランプリで1位になったとか。

店先に並べられたメニュー写真には、ケチャップライスの上に乗せられたふくよかなオムレツの画像。

割るとトロリととろけるオムレツだろうか・・・

魅かれて買ったらしいが、会社で開けてびっくり、単なる白飯にトロトロじゃないオムレツが乗っていたそうだ。

オムライスならぬ、オムレツライスである(笑

添付のトマトソースはハインツのケチャップで味気ない。

しかも白いご飯には、別メニューの牛すじカレーのものと思しき肉の切れ端が入っていたとか・・・

オムレツライスと思って食べるのだと、励ました。

翌日はまた別のキッチンカーが来ていたらしいが、今度は最低でも1000円以上するハンバーグだったとか。

しかし、キッチンカーでは二度と買わないとのこと。

晴明じゃないけれど、キッチンカーってなんとなく安くて美味しそうなイメージだったのに、、、でもまあ現実なんてそういうものよ、なのかも。

設備的に制約も多そうだし、お店のようにはいかないのかな。

最近手にした幾冊かの本。

ここ最近、読んだ本。

伊坂幸太郎さんのゴールデンスランバー

池井戸潤さんのルーズヴェルト・ゲーム」「BT‘63」

そして、三浦しおんさんの「風が強く吹いている」

我が家の二階には、読書好きの母や姉が買い集めた本をぎゅうぎゅう押し込んだ書棚がある。いまでは専らキンドル利用の母たちに代わり、紙派のわたしの相手をすることが増えた本達。

紙がいい。ページをめくる高揚感に加え、終わりを感じながら読み進めるスリルは何とも言えない。紙本はある意味、高度な玩具のようである。

数日前の夜、そんな感覚を味わいながら読み終えたのが、伊坂さんのゴールデンスランバーだ。

衆人環視のなかで起きた首相暗殺事件。

目に見えない大きな力により、理不尽にも当該事件の犯人の濡れ衣を着せられる主人公、、、我が身に起こり得ないとは言い切れない、ある種のリアリティに背筋が凍る。

そんな悲劇の主人公の逃走劇という本筋に対して、それ以外のエピソードが多く、少々余計に感じたが、どうやらそれは意図的?だったらしい。

たしかに登場人物に厚みが増し、物語に深みが出たように思う。

ラストに向けては、終わってしまうのが惜しくて、少し戻っては読み返したりもした。

激流のなかを突き進むような話で、途方に暮れる横暴さに憤りや恐怖、歯がゆさを感じたりもしたけれど、救いがないわけではない。

大きいけれど非力な優しさが束になる。何度か泣かされそうになった。

 

池井戸さんは好きな作家。

ルーズヴェルト・ゲーム」は、経営危機に瀕する中堅メーカーと、そこの弱小社会人野球部の話。青息吐息の状況の中、それぞれがそれぞれの土俵で戦い抜く痛快ストーリー。

アタマを空っぽにして没頭できる娯楽本。悲しい話なんか読みたくない、嘘でもポジティブな話が読みたい人向け。そういう期待を裏切らない展開だから、安心しながらハラハラしたり、ドキドキしたり、涙腺を緩めたりすることができる。そして、納得の爽快な読後感。

たしかドラマ化されている。観てはいないけれど、映像化しやすい内容かもしれない。

でも、個人的には活字で読んだ方が面白いと思う。

 

「BT’63」は上下巻に分かれており、ボリューム的にも読み応えのある作品。

BTとはボンネットトラックのことで、63とは主人公の意識が行き来する1963年のことだと思う。

亡き父の遺品により、突如として若き日の父の意識と繋がり、彼の経験を共有することになった主人公の男性。物語は、心を病んだ男性の再生への物語と、若き日の父親の壮絶な物語が交錯する二重構造になっている。

企業を舞台に描いた池井戸経済小説とは異なる毛色の作品であり、おどろおどろしく、暴力的で、思わず読み飛ばしたくなるような凄惨なシーンも多い。苦手な人は苦手という要素も満載だが、それでも絶対に最後まで読んだほうがいい、ファンタジーだ。

帯に書いてある、「あの親父が歯を食いしばって生きている」という文字をはるかに超えた次元で父親は生きていた。それは気の毒なほど過酷なのだけれど、だからこそ心が震える。

寡黙で地味に思えた父親の凄まじい熱量に触れ、アグレッシブな一途さに胸打たれる。

川の底から砂金を取り出せたような感覚が残る。

 

三浦さんの「風が強く吹いている」は、箱根駅伝を題材にした作品。

ありがちなスポ根アニメというか、読み切りの青春漫画みたい。

活字の世界でこんなに簡単に物事を進めてほしくないと思いつつ読んでいたが、親の影響で子供の頃から箱根駅伝をテレビ視聴し続けてきたわたしである。ゴールシーンではリアルな実況がオーバーラップして、思わず涙腺が緩んでしまった。

箱根駅伝」には見えない力が宿っている。

とはいえ、全体的には拍子抜けの感が否めず、物足りなかった。

もともと初めて読んだ本がまったく合わなくて避けていた著者の作品。

ところが、母と姉は好きらしく、件のぎゅうぎゅう書庫には三浦さんの作品が幾冊もある。そして口を揃えて、あれ(わたしが初めて読んだ本)はたしかにつまらないけれど、他はおもしろいから!と言うので手に取ってみたのだ。

んー、、、

本だって、相性がある。