数日前の朝刊に、この春から高校に進学する子供をもつ母親からの投書が載っていた。
進学が決まり、早速、中古の制服探しを始めたという。
知人に訊いたところ、既に他の人に譲ったあとだったので、ネットのフリーマーケットで探して手に入れたそうだ。
出品者からの温かいメッセージや我が子へのエールも添えられ、明るい春の到来に相応しい、煌めきを感じさせる内容にほっこりとした気分になった。と同時に、時代の流れを感じた。
わたしが子供の時分は、兄弟姉妹からのおさがりならまだしも、家計が相当苦しいということでもなければ、皆、新しい制服を用意してもらっていたと思う。子供に着古しを着せるということは、どちらかといえば後ろめたいことであり、おおっぴらに公言することもなかったのではないだろうか。
社会人になると、中古といえば時計やバッグといった高級ブランド品だろうか。それでも、中古を買ってまで身に着けることに抵抗を感じる人も多かったと思う。
わたし自身はといえば、中古と聞くと元の持ち主の念というか思いが残っているような気がして苦手だった。なんとなく怖い。幽霊や髪の伸びる日本人形が苦手なわたしにとって、中古品はそれらと同一線上にあった。
しかし、いまはユーズドに抵抗のない人が随分と多くなった。
雨後の筍のように増えたフリマサイトをみても明らかだ。
わたしが若い頃は、大量生産、大量消費、大量廃棄の時代だったのかなぁ。
「良品」が循環するようになったことはいいことだと思う。
件の制服なんてまさにそれで、制服を始め、靴やカバン、体操服等々、学校で使われるものは縫製も綺麗で素材も良く、丈夫でいいものばかりだった。ファストファッションとして生産されるものとは比較にならない。
確かにたった三年で廃棄もどうかと思うので、こうして受け継がれていくのは望ましいことだと思う。
優しい母親が明るい語り口で教えてくれた、使い捨てない日常。
その先にある使い捨てない社会に思いを馳せた。
車が空を飛ぶ世界には関心が向かないけれど、使い捨てない社会には惹きつけられる。
そこでは使い捨てられる命もないのだ。もちろん、ヒトの命に限らず。