【映画】「プレイス・イン・ザ・ハート」を観た。

ゴジラジブリアカデミー賞を受賞だそうで。

ゴジラには興味がないので作品を観たことがないのだけれど、ジブリは結構好きなのでだいたい観ている。

ジブリ作品は二度目の受賞というが、前回の受賞から21年も経っていたことに今更ながら驚いた。

いやー、、、人生なんてほんと、あっという間に終わりそうだな。

 

最近、映画といえば専らNHK BSで放映されるものばかり観ている。

CMが無いし、字幕スーパーだし、受け身で映画鑑賞するタイプにはちょうどよい。

先日も母が録画しておいたプレイス・イン・ザ・ハート(原題:Places in the heart)をみた。

1984年公開のアメリカ映画で、フォレストガンプのお母さん役でお馴染みのサリー・フィールドが主演。

彼女は本作で二度目のアカデミー主演女優賞を受賞しているらしい。

舞台は1930年代、大恐慌時代のアメリカ南部。

サリー演じるエドナは、保安官の夫と二人の子供と暮らす平凡な主婦。

ある日、酔っぱらいの黒人が放った銃弾に夫が倒れ、命を落としてしまう。

夫を亡くした悲しみのなか、家事と子育て経験しかないエドナは、今後を憂えて途方に暮れる。家のローンを返済する蓄えもないエドナに銀行担当者は、家を売って子供を親戚に預け、エドナ自身は姉の家に身を寄せるように言う。

しかし、エドナはこれを断り、雑用係として雇ってほしいと現れた黒人モーゼスの提案を受け入れ、敷地内の畑で綿花栽培を始める。

最初にモーゼスが訪ねて来た際、エドナは食事だけを提供し、彼の申し出をやんわり断った。モーゼスは戸口のそばに置いてあった銀食器を盗んで家を後にする。しかし、その後、保安官に見つかり、エドナのもとに連れてこられる。ところがエドナは自分が雇った使用人だと言ってモーゼスを庇ったのだ。

エドナがそうしたのは、彼女の優しさもあるだろうが、彼が口にした綿花栽培以外にお金を稼ぐ術を思いつけなかったことが大きいだろう。

別の日、エドナのもとに銀行担当者が自身の盲目の弟ウィルを連れてやってきた。彼に部屋を貸し、賃料を生活費の足しにしろという。担当者にしてみれば体のいい厄介払いだろうが、エドナはその要求をのんだ。

幼い子供達と借金を抱えた未亡人、父を亡くした子供達、人種差別が激しい時代を生きる黒人、そして盲目の男、、、困難を抱えた人々が一つ屋根の下に集まった。

その後、モーゼスの力を借りて始めた綿花栽培はうまくいく。

自分の殻にこもり孤立していたウィルも無邪気な子供達やエドナたちとの触れ合いのなかで心を開いていく。

きょうを生きることで精いっぱいだった人々が、ポジティブに明日を捉えられるようになる。

そんな人々を自然災害が襲う。さらに、白人至上主義集団KKKがモーゼスを襲う。理不尽な暴力が必死に生きようとする誠実さを打ちのめす。

エドナのもとを去ることに決めたモーゼス。

そんなモーゼスにエドナは声をかける。肌の色など関係ない、あなたはやり遂げたのだと。

エドナたちが住む地域でいちばん最初に綿花を摘み終え、一番乗りの賞金を獲得できたのは、ひとえにモーゼスのおかげだ。エドナは公平だ。あなたが一番なんだと彼に言う。

彼がいなければ、エドナ一家は路頭に迷い、ウィルはいちばん嫌がっていた群の施設に入れられ、孤独の底で息をしていただろう。

互いを尊重し、信頼し、愛し合い、支え合うことの大切さ。それをストレートに伝える良質な作品だと思う。

劇中では、エドナの姉夫婦もキーマンとして登場する。

エドナの姉の夫は、友人夫婦の妻(でエドナの子供の学校の先生)とW不倫をしている。

結局、友人夫妻の妻は煮え切らないエドナの姉の夫の態度と良心の呵責に耐え切れず、夫に懇願して街を去ることにする。一方、夫の浮気を知ったエドナの姉は、美容師として自立していることもあり、夫に見切りをつけるが、最終的に謝罪する夫を許すことにした。

人は過ちを犯す。そしてある意味、愚かだ。

でも、困難を乗り越えなければならないし、救われるために救わねばならないときもあるだろう。

愛と誠実さ、それらは自身の心を豊かにすることにもつながる。

ラストはミサのシーン。

一同が揃っている。

エドナのもとを去ったはずのモーゼス、死んだはずのエドナの夫、そしてその横には、夫を殺した罪で私刑により死んだ黒人青年の姿も。

その表情に怒りや悲しみ、苦悩はない。差別や偏見のない、愛ある世界で実現されるはずの平穏。

宗教観や人種差別といった米国映画ならではの要素を理解する必要性もあるのだろうが、ただひたひたとシンプルに心に染みてくるのは、多くの人が求めるものが普遍的なものだからに違いない。

まあ、人種差別については根深いものゆえ、軽々しく口にすることは憚られるけれど。

冒頭のアカデミー賞でも、プレゼンターを務めたアジア人に対する受賞した白人たちの対応が人種差別的だと批判が殺到したらしい。あまりにも記事が多いので、問題視された映像をみたけれど、個人的には過剰反応し過ぎではないかと思った。

女性受賞者の方は、受賞した喜びと自身のドレスのファスナーが壊れてしまったことで頭がいっぱいのように見えたし、ロバートダウニー・ジュニアに関しては、たぶんこの人は一事が万事、誰に対してもこんな感じなのではないだろうかと思った。

しかし、わたしは経験としての人種差別を知らない人間だ。そういう人間は、したり顔で多くを語るべきではないだろう。

活字やドラマだけをみて理解することは、なかなか難しい。

いずれにせよ、心を痛めた人に無言で寄り添える心は大切にしたい。

独り言つ - ちいさな雛飾り、過疎地の避難訓練、お味噌汁は具沢山。

せめて三日に一度はメモのように日々の何かしらを書き留め(打ち込み)、投稿することを習慣にしたいと思っているのだが、結局、何も記すことなく月が替わり三月になった。

雛祭りも過ぎた。

我が家の雛人形は七段飾りの立派なものではなく、ガラスケースに入った、いわばプチセットといった感じの代物。

それでも男雛に女雛、三人官女、五人囃子、右大臣、左大臣の随臣(ずいじん)二名、仕丁(じちょう)と呼ばれる従者三名の他、桃の花飾りなどもあり、コンパクトながらそれなりに揃っている。

毎年、母がこのミニチュア雛飾りを外の倉庫から出してきては明るい場所に飾ってくれる。

今年は私がガラスケースと雛人形や小物を収めた箱を屋内に運んだ(飾りつけは母)。

これら一式を収める外箱の劣化がかなり進んでいたが、中身は案外綺麗なままである。

飾りつけが済むと懐かしい記憶が蘇ってきた。

子供の時分は二階の押し入れに仕舞われていたので、人形遊びが好きだったわたしは、しょっちゅう箱から出して遊んでいた。

うちのお雛様は段の上から下々を眺めることもなく、年がら年中わたしの相手で心休まることがなかったかもしれない。

さて、先の日曜、10日は避難訓練があった。

当日、母は先約があり不在だったが、80代半ばの隣人に声をかけ、近所の同級生の母親にも声をかけ、当日顔を合わせたご近所さんら数名と避難場所にゆっくりとした足取りで向かった。

話は逸れるが、先日、仙台に行くために東北新幹線に乗った際に見た、車窓の向こうの景色が忘れられない。空は高く、視界の奥にはCGさながらの雄々しい峰々の連なり、そして、広い平地にゆったりと建つ家、道路、、、羨ましいことこの上ない様子に目が釘付けになった。

というのも、わたしの住む地域一帯はとにかく平地がなく、山を削った場所にひしめき合うようにして家々が立ち並ぶ。車道も狭く、車同士は互いに歩道を塞ぎながらすれ違うほどだ。

海沿いのため、大地震がきたら、絶望的な高さの大津波がくると言われており、避難場所はどこも高台にある。

しかし、高台へ続く細い道の脇には延々と崖が続いており、おそらく大津波がくる規模の地震であれば、避難場所に至る道も多かれ少なかれ崖崩れの影響を受けるに違いない。

高齢者が人口の5割に達しようかというほどのエリアだ。

訓練の日も杖をついたり、途中で休みながら坂を上っていくシニアの方々の姿を見かけた。

実際に崖崩れが起こった際、道なき道を避難するのは容易ではないだろう。

たぶん、市内の彼方此方で孤立地帯が発生すると思う。

備蓄が不十分なところも意外とあるらしく、東日本大震災の教訓が活かされていないと思う点は多々ある。

ところが、住民だけを責めるのも酷なのだ。

昨晩、NHKのローカルニュースで取り上げられていた内容によると、防災の備蓄等々は、細分化された地区ごとに管理が任されており、地区によっては高齢化と過疎化で音頭をとれるような人もおらず、また地区の予算もないという状況。

これではなるようにしかならない精神が先行しても致し方ないと思ってしまう。

今回の避難訓練も長い坂を上り切って指定の学校まで行ったら、名前と住所だけ書いて帰ってもいいという内容で、訓練実施の目的がいまいちよく分からなかった。

とりあえず、ご近所さんのなかには帰る人もいたが、わたしたち一行は、防災会の方の案内で、災害時に避難場所となる体育館と校舎の一階の見学に参加させてもらった。

まあ、単に見ただけって感じだけれど。

想定では、避難者が3千人~4千人に上るらしい、、、

内心、ここに入りきらんだろうなあと思いつつ、、他方、ここまで辿り着けないであろう人々のことを考えたりもした。わたしはどっちだろう。

とにかく四方八方が崖なので、どの道が残るのか。

行政側で様々な仮定をたて、それをシェアしてほしいものだが。

そういえば先述のニュースでは、広域の視点でみたこの辺りのお粗末な防災状況の実態を公にしない理由の一つが、観光地であるからというものだった。

個人的には、中途半端でしょぼいイベントをやる予算があるなら、しっかりとした備えや訓練実施にまわし、その様子を公に発信した方が、観光客も安心してこれるというものではないだろうかと思ったりもする。

まあいずれにせよ、わたしはわたしで家の備蓄の継続をすること。

屋内だけではなく、車の中にも水や食料、ちょっとした備品を入れたリュックを常備した。出先で被災したときや、家屋が崩れたときに備えて。

簡易トイレも、もう少し余分に買ってもいいかなと思っている。

きょうは母が句会に行く日なので、留守の間にお味噌汁を作っておいた。

お決まりの具沢山の汁物。

きょうは野菜三種にワカメ、豆腐、油揚げ。

簡単だけれど、それなりにビタミンやミネラル、たんぱく質が摂れるし、作り置きしておくと喜ぶ母である。

独り言つ - 大相撲やら同性婚やら。

#大相撲

大相撲初場所が終わった。

千秋楽では、横綱照ノ富士が本割で大関霧島を吹っ飛ばして完勝し、琴ノ若との優勝決定戦を圧巻の強さで制した。

琴ノ若とは本割、決定戦と二度目の取り組みになるので、琴ノ若も多少は踏ん張り意地を見せたが、やっぱり横綱は強かった。

怪我で思うような稽古が出来ず、場所前は親方も心配するほどだったが、蓋を開けてみれば大関以下とは段違いの強さ。技に精神力、共にこれぞ横綱というところを示してくれたように思う。

貫禄十分で本当に格好良かった。

どうか(横審のいうことは適当に聞いて)、無理をせず、休養を挟みながら、自身の悲願である二桁優勝を達成してほしいと思う。

今場所は幕下に伯桜鵬、若隆景がいたこともあり、幕下から十両、幕内と見所満載の場所だった。

若隆景は来場所十両復帰、幕内まであともう少しだね。

推しの伯桜鵬も無事に十両復帰。左肩に気をつけながら、焦らずじっくりと横綱への道を進んでいってほしい。

霧島も頑張れ!

そして、琴ノ若大関昇進、おめでとう~(´▽`)

すでに来場所が待ち遠しい(笑

 

そういえば先日、ヤフーニュースで栃ノ心の記事を見かけた。

相撲協会には残らず、ワインの輸出入ビジネスをやるというのをどこかで見かけて以来の近況。

母国の奥さんとお子さんはずっと向こうで暮らしているようなので、まあこれからは行ったり来たりできるので良かったのではと思っていたら、実は五年ほど前に離婚したらしい。

そして、すでに日本人と再婚して一男を設け、さらにわんわん二頭を加えた新しい家庭を築いていた。

また、栃ノ心のお祖父様が小さなワイナリーを所有していたので、子供の頃から手伝っており、もともとジョージアのワインが身近なものであったらしい。

日本に来たらジョージアワインの認知度が低すぎて、すごく悲しかったとか。

たしかにジョージアという国名も以前はグルジアと呼ばれていて、それ何処?って感じの人も多かっただろうしね(かくいうわたしもその一人)。

今は、新たな人生の伴侶と共にワインの輸入会社を興して頑張っている栃ノ心

飲食店を始め、あちこちに卸しているらしい。

前妻との間に出来たお子さんとは二回ぐらいしか会ったことがないらしく、もはや会わせてもらえないとか、、、

以前、大関に昇進した際、凱旋帰国の映像を観たけれど、お相撲さんって特殊な職業なので、遠距離は大変だろうなあと思っていたんだよね。

だから離婚したと聞いて、なんとなく、ああやっぱり的な感じがしないわけでもなかった。

奥さんには奥さんのやりたいことがあっただろうし、ジョージアでの生活を大事にしていたのだろう。

栃ノ心栃ノ心で、これから新しい家族といろいろなことを共有する楽しさや分かち合う尊さを存分に味わってほしいし、別れた奥さんとお子さんも幸せでいてほしいな。

余計なお世話なんだけどね、笑 栃ノ心のインタビューの言葉の端々から、嘘のない真っ直ぐな印象を受けたので、幸せになってほしいと思ったのよね。

 

同性婚

先日の朝刊に事実婚している同性の遺族に被害者給付金を払うかどうかの記事が出ていた。

例えば、旦那さんを殺害された妻は被害者給付金を貰うことができる。

これは婚姻関係にある夫婦だけではなく、事実婚でも貰えるらしい。

ところが、同性のパートナーを殺された男性が愛知県の公安委員会に給付金を申請したら不支給になった。そこで、県を提訴したものの、一審、二審ともに決定は覆らず。

しかしこのたび、最高裁にて二審で下された結論を変えるために必要な手続きといわれる「弁論」なるものが開かれることになったそうで、不支給の判決が見直される可能性が出てきたらしい。

じつはこの訴訟の二審の判決後、別の訴訟で「同性のカップル間でも事実婚が成立する」という最高裁の判断が出ているらしい。

それと照合して整合性を図るためにも今回の判断は必要不可欠なのだろう。

私事だが、以前、異性の友人とハウスシェアをしていた頃、ご近所さんは私達をカップルだと思っていた。

逆に女性同士だったら友人同士と思われたに違いない。

モヤモヤしたけれど、日本育ちの中年からすると、まあなんとなくそういう考えが分からないわけでもないし、だから愛知県がいいたいこともなんとなくわかる。

なんとなくだけれど。

でも、いまやジェンダー平等社会を実現しようという考えが主流だし、やっぱりその方がしっくりくる。

正直、個人的には事実婚のほうがモヤモヤする。

もちろん事実婚=入籍にこだわらない関係は、当然アリ。それは個人の勝手。

でも、法的保護という話になると、どうなんだろう。

さっさと同性婚夫婦別姓も認めて、事実婚との間に法的線引きをしたほうが、ずっとすっきりすると思うのだけれど。